ドジャー・スタジアムはLos Angeles Dodgers(ロサンゼルス・ドジャース)の本拠地であり、メジャーリーグにおける聖地のひとつと言えるでしょう。1962年の開場以来、この由緒あるスタジアムで10回のワールドシリーズが開催され、ドジャースは5度のワールドチャンピオンに輝いてきました。また、2022年に60周年を迎えたドジャースタジアムでは、7月19日にMLBオールスターゲームが開催されました。
何十年にもわたり、殿堂入り選手、世界チャンピオン、ノーヒットノーラン、MVP、サイ・ヤング賞受賞者を輩出してきたドジャー・スタジアム。また、ビートルズからローマ法王、NHLスタジアム・シリーズ、ハーレム・グローブトロッターズまで、さまざまな特別イベントを開催してきた、全米屈指のエンターテイメント施設でもあります。ドジャー・スタジアム史上の歴史的瞬間トップ10をご紹介しましょう。
1. カーク・ギブソンのホームラン(1988年10月15日)
それはまるでハリウッド映画のワンシーンのような出来事。1988年のワールドシリーズ第1戦。9回裏、ドジャースはオークランド・アスレチックスに4対3でリードされていた。マウンドには、後に殿堂入りを果たすクローザーのデニス・エカーズリー。一塁にはドジャースのマイク・デービス外野手。カーク・ギブソンは、左ハムストリングの肉離れと右膝の腫れにより歩くのも困難な状態でしたが、トミー・ラソーダ監督はサプライズでギブソンをピンチヒッターとして投入。ギブソンはすぐにカウント0-2と追い込まれたが、カウント2-2まで戻した。ギブソンへの6球目、ボールでデービスが2塁へ盗塁。カウント3-2から、ギブソンは上半身の力を振り絞りバックドア・スライダーを右翼フェンスの上に飛ばし、ドジャースに5-4の勝利をもたらした。チームメイトがフィールドに押し寄せる中、ギブソンは拳を突き上げ、足を引きずりながらベースを回った。ドジャース殿堂入りアナウンサーのヴィン・スカリーは、この瞬間を心に刻んだ後、"ありえないことが起こった!"と語った。ギブソンは、このワールドシリーズでこの後打席に立つことはなかった。ドジャースはアスレチックスを4対1で破り、6度目のワールドシリーズ・タイトルを獲得。ギブソンのホームランは、それ以来神話的な史上最高のホームランのひとつとされ、ロサンゼルス史上最高のスポーツの瞬間とされている。
2. サンディ・コーファックスの完全試合(1965年9月9日)
1965年9月9日、殿堂入り投手のサンディ・コーファックスが、ドジャースタジアムでシカゴ・カブスを相手に完全試合を達成。コーファックスは27打者連続出塁を許さず凡退に抑え、近代投手として6人目、通算8人目となる完全試合を達成した。この試合は、コーファックスにとって4度目のノーヒットノーランであり、ボブ・フェラーの持つ3度のメジャー記録を更新した。コーファックスは、カブスの打者から14三振を奪ったこの試合、コーファックスは113球を投げ、そのうち79球がストライクだった。
3. クレイトン・カーショウのノーヒットノーラン(2014年6月18日)
クレイトン・カーショウは、2014年6月18日のコロラド・ロッキーズ戦でキャリア初のノーヒットノーランを達成し、ドジャースの偉大な選手たちの仲間入りを果たした。ナショナル・リーグで3度サイ・ヤング賞を受賞しているカーショウは、自己最多となる15三振を奪い、無四球でノーヒットノーランを達成した史上初の投手となった。翌朝、スポーツライターは挙って称賛し、ロサンゼルス・タイムズ紙は 「史上最高の投球」、ワシントン・ポスト紙は 「史上最高のノーヒットノーラン」、ESPNは 「史上最も圧倒的なノーヒットノーラン」と評した。カーショウは、7回にショートのハンリー・ラミレスのエラーで完全試合を逃した。カーショウのノーヒットノーランは、5月25日にフィラデルフィアのフィリーズ戦でジョシュ・ベケットがノーヒットノーランを達成したのに続き、ドジャースにとってそのシーズン2度目となり、ロサンゼルス・ドジャース史上では12人目、メジャーリーグ通算は284人目であった。
4. フェルナンドマニアの始まり(1981年4月9日)
1981年4月9日、負傷したジェリー・ロイスに代わってドジャースの3番先発だった20歳のフェルナンド・バレンズエラが開幕投手としてマウンドに立った時、世界を魅了する伝説が始まった。ヒューストン・アストロズを5安打完封したバレンズエラの登板は、おそらく後にも先にもない壮絶な連投の幕開けとなった。彼の最初の8登板の数字は驚異的で、8勝、7完投、5完封、防御率0.50だった。ファンから 「エル・トロ」の愛称で呼ばれたバレンズエラは、瞬く間にスター選手となり、「フェルナンドマニア」はロサンゼルスからニューヨーク、そして世界中の野球ファンを虜にした。破壊的なスクリューボールを武器に、1981年のオールスター・ゲームでナショナル・リーグの先発投手に指名され、その後5回オールスターに出場している。同年、バレンズエラはメジャーリーグ史上唯一、同一シーズンに新人王とサイ・ヤング賞を受賞した選手となった。ポストシーズンでは、ワールドシリーズ初戦に先発した最年少投手となり、ドジャースがヤンキースを破って1965年以来のワールドチャンピオンに輝くのに貢献した。打者としても優秀で、1981年と1983年にはナショナル・リーグの投手部門シルバースラッガー賞を受賞。1990年6月29日、バレンズエラはセントルイス・カージナルス戦でノーヒットノーランを達成。信じられないことに、この日、オークランドA’sのデーブ・スチュワートもトロント・ブルージェイズでノーヒットノーランを達成し、同じ日に2つのノーヒットノーランが達成されたのは、近代ではこの日だけである。
5. 1963年ワールドシリーズ第4戦(1963年10月6日)
10月6日、ドジャースはニューヨーク・ヤンキースに2-1で勝利し、1963年のワールドシリーズを制覇した。この優勝は5年間で2度目、球団史上3度目のタイトル獲得となった。今日に至るまで、ドジャースがワールドシリーズをホームで制したのは、この63年ワールドシリーズ第4戦のみ。シリーズMVPはドジャースのサンディ・コーファックス投手が受賞。また、このシリーズには、ドジャースのコーファックス、ドン・ドライスデール、ウォルター・アルストン、ヤンキースのヨギ・ベラ、ホワイティ・フォード、ミッキー・マントル、と後に殿堂入りする選手が何人も登場した。
6. ドジャー・スタジアム開場(1962年4月10日)
それまでの4シーズンをロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで過ごしたドジャースは、チームの新球場であるドジャー・スタジアムで1962年シーズンをスタート。1959年9月17日に起工、2,300万ドルをかけて建設されたドジャー・スタジアムは、ヤンキース・スタジアム以来、全額民間資金で建設されたメジャーリーグのスタジアムだった。1962年4月10日、ドジャース対シンシナティ・レッズの試合でドジャー・スタジアムはオープンし、52,564人のファンを動員。始球式は、ドジャース会長ウォルター・オマリーの妻ケイが務めた。先発は1955年のワールドシリーズのヒーローであったジョニー・ポドレス。新天地でのドジャースの初安打は、殿堂入りしたデューク・スナイダー。ドジャースはレッズに6対3で敗れたが、その後ロサンゼルス記録となる102勝を挙げ、サンフランシスコ・ジャイアンツと並びナショナル・リーグ首位となった。ドジャースのショート、モーリー・ウィルスはナショナル・リーグのMVPを受賞、投手のドン・ドライスデールはその年のサイ・ヤング賞を受賞した。
7. リック・マンデー、アメリカ国旗を救う(1976年4月25日)
1976年4月25日、2人の抗議活動家がドジャースタジアムのフィールドに侵入、アメリカ国旗に火をつけようとした。その時、シカゴ・カブスの外野手リック・マンデーが駆け寄り、観客からの轟くような拍手を受けながら国旗を掴み無事救出。マンデーはその国旗をドジャースのダグ・ラウ投手に手渡し、球場の警察官が2人の侵入者を逮捕。次のイニングにマンデーが打席に立つと、彼は観客からスタンディング・オベーションを受け、メッセージボードには「リック・マンデー....素晴らしいプレーだった...」と表示された。シーズン終了後、カブスはマンデーを5選手契約でドジャースにトレード。このトレードは、サンタモニカで生まれ育ったマンデーにとって里帰りとなった。引退後、マンデーは1985年にロサンゼルスのKTTVでスポーツ・キャスターとして放送のキャリアをスタート、1993年にドジャースの放送チームに加わり、2001年にはエミー賞のスポーツ中継部門を受賞した。現在は実況アナウンサーのチャーリー・シュタイナーとともに全162試合のアナリストを務めている。2005年、『USAトゥデイ』誌は、ヴィン・スカリー、マンデー、スタイナーを擁するドジャースのラジオ放送チームをメジャーリーグ最高の放送チームと評価した。
8. ジャスティン・ターナーのホームラン(2017年10月15日)
カーク・ギブソンの伝説的なワールドシリーズのホームランから29年目のこの日、ドジャースの三塁手ジャスティン・ターナーは、9回裏にサヨナラホームランを放ち、シカゴ・カブスに4対1で勝利した。このターナーのホームランによりドジャースはナショナル・リーグ優勝決定シリーズで2-0のリードを奪い、満員の観衆を熱狂させた。ドジャースの先頭打者、クリス・テイラーはUSA Today(USAトゥデイ紙)に「私のキャリアの中で最もクールな瞬間だった」と語っている。ギブソンがホームランを打った時、4歳だったターナーはロングビーチの祖母の家でテレビで観戦していた。そしていつの日か、未来のドジャースの選手が自身の伝説的な瞬間を手にした時、ターナーのホームランを子供の頃に見たときっと言うのだろう。
9. ドジャースの永久欠番:カンパネラ、クーファックス、ロビンソン(1972年6月4日)
1972年6月4日、ドジャースは野球史上最も偉大な3選手、殿堂入りしたロイ・カンパネラ(背番号39)、サンディ・コーファックス(背番号32)、ジャッキー・ロビンソン(背番号42)の背番号を永久欠番とした。カンパネラはブルックリン・ドジャースに10シーズン在籍し、1955年のワールドチャンピオンを含む5つのペナント優勝チームでプレー。捕手であった彼は、は8度のオールスターと3度のナショナル・リーグMVPに輝いた。悲劇的な自動車事故で半身不随となりキャリアを絶たれたカンパネラは、1969年に野球殿堂入りを果たした。
サンディ・コーファックスは、野球史上最も卓越した能力を持つ投手の一人である。左腕の彼は、1965年の完全試合を含めナショナル・リーグ記録となる4度のノーヒットノーランを達成し、1965年のには382奪三振でそのシーズンの記録を樹立した。コーファックスは4度のワールドシリーズ・チャンピオン、2度のワールドシリーズMVP、3度のサイ・ヤング賞受賞、7度のナショナル・リーグでオールスター選出。1972年に野球殿堂入り。
1947年4月15日、メジャーリーグ・デビューを果たしたジャッキー・ロビンソンは、野球史上初のアフリカ系アメリカ人選手となり、その試合は野球の歴史を変えた。ロビンソンには、現在では彼の名前が冠されている初代新人王が贈られた。1955年のワールドチャンピオンを含む、ブルックリン・ドジャースの6度のペナント優勝に貢献。1949年には6度目となるオールスターに出場し、ナショナル・リーグの打点王を獲得、MVPにも輝いた。ロビンソンは1962年に野球殿堂入りを果たした。ジャッキー・ロビンソンがメジャーリーグの人種の壁を破った50周年にあたる年、バド・セリグ・コミッショナーの命により、彼の背番号42はメジャー全球団で永久欠番となった。
10. マイク・ピアッツァ、場外ホームランを放つ(1997年9月21日)
1997年9月21日、ドジャースの捕手マイク・ピアッツァは、コロラド・ロッキーズのフランク・カスティージョから、ホームランを放った。そのボールは、レフト・フィールド・パビリオンの屋根に着地し、レフト・フィールドのビデオ・ボードの下から駐車場へ飛び込む478フィート(約145.7m)の飛距離であった。今日まで、ピアッツァはドジャースの選手としては唯一、全選手でも5名しか達成していないドジャー・スタジアムでの場外ホームランを打った選手である。
最近では、サンディエゴ・パドレスのショート、フェルナンド・タティス・ジュニアが2021年9月30日にレフト・フィールド・パビリオンの屋根まで届くホームランを打った。レフト・フィールド・パビリオンを越えるホームランを打った選手は、マイアミ・マーリンズのジャンカルロ・スタントン(2015年5月12日)、そしてセントルイス・カージナルスの一塁手マーク・マグワイア(1999年5月22日)の2人。また、ピッツバーグ・パイレーツの外野手で殿堂入りしたウィリー・スタージェルは、ライト・フィールド・パビリオンを越えるホームランを2度放った。最初は1969年8月6日507フィート(約154.5m)の特大ホームラン、2度目は1973年5月8日であった。